<第1章 入試現代文とはどういう教科なのか?> 

[(i).入試現代文で問われている力] 

入試現代文がどういう教科であるかについては
田村秀行氏をはじめとする予備校の先生方が繰り返していることであるが、
「与えられた文章を、誰もが日常的に使っている現代日本語の文法に従って、
 正確に内容を把握し、本文から導くのが妥当だと思われる内容を解答する教科」
というふうにまとめられると思う。
大学に入学した後みんなは、それぞれの専門の授業で専門書を自分の力で読み解いていかねばならない。
そういった大学での授業についていけるだけの基礎的なリテラシー能力を受験生が持っているかどうか、
それを大学側は現代文という教科で問うていると言える。

[(ii).テクスト分析としての入試現代文] 

よく、「大学入試の現代文問題を、その著者に解かせたら間違えた」とか
著者が「私はこんなことを言うつもりだったんじゃない」と言ったりとか
筆者をタテにして入試現代文を批判する論調があるけど、これは入試現代文の特徴を理解していない発言と言わざるをえない。
こういう批判に対してはこういう疑問を返すことができる。
「でも、あなた(筆者)の文章を一般的な文法規則に従って読み解いたならば、
 こういう内容を引き出すのが妥当といわざるをえないのですが」と。
入試現代文の内容読解に関しては、「筆者自身の真意」は介在する余地がない。
あくまで与えられた文章(テクスト)それ自体から、引き出すのが妥当と思われる内容を解答するのがこの現代文という教科だ。
ちなみに、東京大学の現代文問題では出典を表示しないのが恒例になっているが、
これは問題文を「作者の『真意』とは独立した存在としてのテクスト」として扱うことで
こうした現代文という教科の特性を徹底しているからだとも考えられる。

[(iii).高校国語と大学入試現代文の間の距離] 

大学入試現代文が難しい要因として、高校の現代文と大学入試現代文の間にかなりの懸隔(へだたり)があることも挙げられる。
これはさっき述べた、「現代文は大学の授業についていけるだけのリテラシー能力を持っているか問う教科だ」というところと関連する。
大学は国語学だけを研究している場ではない。法学、政治学、経済学、歴史学、哲学、心理学、社会学、教育学… 
こういったさまざまな領域の学問が研究されているのが大学という場であり、
入試現代文を出題しているのはこうした大学で研究している先生たちなのだ。
大学の先生方は入試現代文という科目で、こうした大学で現在研究されているさまざまな学問領域の文章を出題し
受験生の頭がそれについていけるのかどうか問うてくるのだ。
ところが高校の国語では、こうした大学で現在行われているような学問内容を知る機会は少ない。
それどころか、高校国語では小説を多く扱っていることもあって、「現代文=文学」という思い込みが受験生に刷り込まれかねない。
「現代文=文学」「現代文=小説」という思い込みを抱いてしまっている受験生は、まずその思い込みを捨てるところから始めねばならない。
入試現代文は、「文学の読解」ではない。大学で現在行われている学問についていけるか、その基礎力を問うているのだ。
入試現代文を、「高校国語の延長線上」ではなく「大学の初歩」と捉える発想の転換が必要だろう。

<第0章>
<第1章 入試現代文とはどういう教科なのか?>
<第2章 入試現代文のためにはどう勉強したらよいのか?>
<第2章 続き>
<結語>

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